サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う- クリア後感想

サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う- クリア後感想


サクラノ詩

目次

はじめに

こんにちは、しぐです。

本記事は枕ブランドの『サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-』の感想を記したものです。

もし読んでいただける方は、以下の点にご留意くださいませ。

  • 本編クリアを前提としたネタバレを多数含みます。 未プレイの方は楽しみを損なわないよう、ここで引き返していただくことをオススメ致します。本編クリア後にまたお越しください。
  • 後半に行くほど辛めの内容です。

記事中で使用している画像はタイトル画面の画像を拝借しております。

ケロQ&枕プレイ状況について

姉妹ブランドであるケロQは終ノ空、モエかん、素晴らしき日々〜不連続存在〜 をプレイ済です。一方で枕の作品は今作のサクラノ詩が初めてでした。

このブランドは現状、素晴らしき日々とサクラノシリーズの2本軸で戦っているようです。終ノ空と素晴らしき日々は一部キャラや世界観を共有しているので、これから素晴らしき日々を始める方は10th Anniversary版を購入すると両方楽しめてお得かもしれません。

ケロQとしての新作は素晴らしき日々以降長らく出ていないので、今後はサクラノシリーズに注力するのかしら? 2026年5月現在ではサクラノシリーズの最終作? サクラノ響を制作しているようですが、これ以外のシリーズは今後出てくるんでしょうか。

色んな意味ですかぢさん次第なブランドという印象。業界の中で明確な独自性を出そうとしている姿勢はすごく好きです。

サクラノ詩をどう読んだか

本作の人間ドラマの中核要素は血縁だと思います。
単なる家族の物語ではありません。歴史的な因果や権力闘争を経て生まれた複数の家が時に交わり、争いながらも生きていこうとする人々の物語だと感じました。
なので、物語の各論に移る前に登場人物がどのような血縁関係にあり、互いにどのような気持ちを抱くようになったのかを整理していきたいと思います。
これが頭に入っていないと、登場人物たちの台詞や行動原理を読み解くのが困難になります。

本作では現実で議論されてきた哲学、思想が多数引用されています。これらが血縁とどう関連してくるのか、各ルートの考察と共に見ていきます。

主人公とヒロインを取り巻く血縁の整理

旧姓を持つキャラが多いため、物語開始時点での姓を優先する。

中村家

舞台となる弓張市を長らく支配してきた名家。その歴史は鎌倉時代にまで遡り、伯奇と呼ばれる人の心を飲むことができる巫女がまれに生まれ、そのたびに家が勃興してきたという伝承を信じている。
後述する夏目家との抗争により、その影響は以前より小さくなっている。

中村章一

現中村家当主。弓張学園の元理事であり中村製薬の会長。中村家に伝わる伯奇伝承を信じており、埋木舎(後の夏目屋敷)と呼ばれる屋敷に中村家の血を薄めないためという理由で、生まれた子を妾とするために閉じ込めていた。
鳥谷真琴(母・鳥谷紗希)、夏目圭(母・恩田霧乃)、夏目雫(母・不明)の実父である。

夏目家

夏目琴子が戦後に財を成した弓張港の荷の取引会社を元に発展した一家。その後、琴子を組長としたヤクザ組織を構え、弓張の裏社会で暗躍しようとしていた中村家と抗争を繰り広げる。
琴子の死後に組は解散しているが、極道の影響力は残っている。

夏目琴子

草薙健一郎の祖母である。中村水菜の義理の祖母かつ保護者であり、中村家の妾の子である藍を夏目家に引き取った。
水菜を中村家から救うため健一郎が描いた水菜モデルのオランピアを買取り、それを中村章一にわざと破らせて賠償を請求し、借金のカタとして夏目屋敷と藍を買い取った。
中村家の力を弱めた後に夏目屋敷で暮らし始め、健一郎や直哉に厳しく接しつつも藍や雫、水菜からは懐かれていた。

鳥谷家

名のしれた貿易会社。

鳥谷紗希

弓張学園校長。政略結婚のような形で中村家に嫁ぎ真琴を生む。その後離婚して中村から鳥谷の姓に戻り真琴の親権を引き取るものの、紗希の実子でない圭は夏目家に預けた。加えて母子としての交流がほとんどなかったため、真琴からは圭と引き離されたと恨まれている。

鳥谷静流

紗希の姪であり、真琴の従姉妹。喫茶店「キマイラ」のオーナーであり、母と折り合いが悪い真琴を2階に下宿させアルバイトさせている。

草薙家

草薙健一郎

主人公直哉の父であり水菜の夫。紗希の口利きで弓張学園の非常勤美術講師を務めていたが、当時学生だった水菜と出会い彼女の境遇を知ると、彼女を救うことを決意する。
オランピアの借金のカタで水菜を自由の身にする計画だったがうまくいかず、水菜と駆け落ちしながら借金を工面するための金を集める。後に世界的芸術家としての名声を確立する。

草薙水菜

健一郎の妻で直哉の母、旧姓中村。夏目屋敷で藍と暮らしており、藍からは姉として慕われていた(近親者ではあるはずだが、藍との正確な血縁は作中で記載見当たらず)

共通ルート(II章 Abendまで)

共通ルート

ここまでは上記にまとめてきた血縁の背景は一切語られない。あってもほんの匂わせ程度。
ただし途中途中に出てくる哲学・思想の引用を読み解こうとすると必要になってきます。

宮沢賢治『春と修羅 序』

賢治の仏教的な世界観を表す作品です。自我と他者の境界がなくなり、すべては相互につながり合って存在しているという考え方を示しています。

それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)

サクラノ詩ではこの一節が引用された「櫻ノ詩」という詩が草薙健一郎の作品『櫻日狂想』に記されています。
この詩は、晩年の健一郎が至る世界観であると同時に、直哉に継承されている世界観としても位置づけられています。直哉は因果交流電燈として他の人々と繋がるための起点の一つという立ち位置です。

健一郎も直哉も、芸術家であろうとすることは他者と相互に繋がるための手段だったんですよね。健一郎は水菜や雫を助けようと金策をする手段として、直哉も雫や氷川など多くのヒロインと相互に繋がるために芸術という能力を使いました。決して己が富、名声のためではない。

この物語を表すタイトルにふさわしいネーミングです。

バートランド・ラッセル(what is mind〜)

What is mind? no matter
what is matter? never mind.

20世紀初頭の哲学者バートランド・ラッセルが言及した一節で、名詞としてのmind(心)/matter(物質)と、慣用句としてのno matter(どうでもいい)/never mind(気にするな)が対比になっています。
精神と物質のどちらがより根源的か? という哲学論争に対して「どうでもいい」「気にするな」とユーモアを交えて一蹴したというニュアンスが込められています。

サクラノ詩では健一郎の口癖として登場し、直哉もその影響を強く受けます。健一郎にとっては中村章一に身体を穢された水菜、伯奇の器として心を空にすることを強要されてきた雫に向けられた言葉と考えられます。
精神と物質、もっと言えば心と身体の乖離に苦悩する彼女たちに「どうでもいい、気にするな」と大きな愛で包み込もうとする健一郎を象徴する言葉になっていました。

中原中也『春日狂想』

詩人・中村中也が病気で亡くした長男に宛てた追悼詩と言われています。

愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません。

愛する人を失った時の悲しみ、しかしそれでも生きていかねばならない苦しみを自殺という言葉で表現しています。

サクラノ詩では幼い稟に向けて直哉がこの一節を引用します。おそらくこの時点で稟は記憶を失っていたのでしょう。愛するものとは直接的には火事で亡くなった稟の母親を指していますが、直哉が愛した記憶を失う前の稟のことも指しているのだと思います。そして直哉は優しさからその事実を稟に伝えることが出来ない。
といったやるせなさが中也の引用として直哉の口から語られたのではないでしょうか。

奉仕の精神というのも重要なキーワードです。

オスカー・ワイルド『幸福な王子』

唯美主義を掲げた作家オスカー・ワイルドによる作品です。

街のもっとも高い円柱に、幸福な王子の像が立っていました。
全身を純金の箔に包まれ、眼には二つの輝くサファイア、そして刀の柄には大きなルビーが輝いておりました。
この美しい王子は、街の人々の大いなる自慢でもありました。
ある晩、温かい場所に渡ろうとしていたツバメが王子の台座で寝ようとすると、真上から大粒の雫が降ってきました。

幸福な王子は博愛、自己犠牲、献身を描いた作品です。「人生は芸術を模倣する」という挑発的なフレーズもワイルドの言葉です(後述します)。しかしワイルドは同性愛を理由に投獄され、出所するも孤独な最期を迎えます。
彼が探求した美は危うさと隣り合わせであり、奇しくも彼自身の人生によってそれを証明してしまう。

サクラノ詩ではこの物語が稟によって語られます。Ⅰ章ではこれが何を意味するのか分かりませんでしたが、これはⅤ章以降の展開を暗示したものでした。夏目圭は、草薙直哉という存在を絶対的な美とみなして追いつき追い越そうとし、非業の死を遂げる。
おそらくこの話における王子とは直哉、ツバメとは圭のことを指していると思います。

オスカー・ワイルド『嘘と衰退』

命を捧げる自己犠牲を描いたワイルドですが、『嘘と衰退』という作品では
「Life Imitates art(人生は芸術を模倣する)」
というフレーズが出てきます。虚実であるはずの芸術こそ現実であり、人生の方が虚像なのだというニュアンスです。
しかし、このフレーズには続きがあります。

「Life imitates art far more than art imitates Life.(芸術が人生を模倣することよりも、人生が芸術を模倣することのほうが多いのだ)」

このフレーズを合わせて解釈すると、芸術が人生(現実)に与える影響の大きさが強調されていることが分かります。芸術とは決して人生の写し身に留まらない、芸術を鑑賞した者の世界観を揺るがし生きるヒントを与えてくれるのだ、というメッセージが伝わってきます。

これは、サクラノ詩における芸術の在り方を定義したフレーズのように思えました。健一郎が生み出した『横たわる櫻』は直哉や明石を始めとした主要人物全てに影響を与えましたし、直哉が生み出した『櫻日狂想』は真琴や圭など多くの主要人物に影響を与えました。病気による死を覚悟した氷川と共作し、糸杉と桜の協奏を完成させることで彼女の心を奮い立たせました。
Ⅱで完成させる『櫻達の足音』も同様ですね。

その他

言葉には有効期限が存在するから価値がある

日常パートで飛び出す真琴の台詞です。永遠の期限を持つ言葉なんて存在しないのと同じだ、と彼女は主張します。
私の解釈ですが、真琴の言葉を裏返して読むなら「価値のある言葉には有効期限がある」と言い換えることもできる。
では価値のある言葉とは何か? それは、人の心を捉えて離さないような言葉ではないでしょうか?

私たちは日々の生活の中で稀に「忘れたくない言葉」というものに出会います。自分を肯定してくれる言葉、誰かを勇気づける言葉、人生の真理を捉えた言葉……それらをなぜ忘れたくないと思うのか?
きっと、それらの言葉が誰かの人生を前に進ませるエネルギーを持つからだと思います。エネルギーは有限です。タイミングも重要で、適切なタイミングに受け取らなければその言葉のエネルギーを感じることができない。
人生は芸術を模倣する、で議論した芸術の有り様に通じる話だと思いました。

チューブ入り絵の具と写真の登場

美術史を語る中で出てきた話題です。チューブ入り絵の具が登場する前は顔料の独自配合などが絵画の個性を出していたが、チューブ入り絵の具が発明されると取って代わるようになってしまった。写真も写実主義の有り様に大きな影響を与えた技術であると。

私はこの話を読んで、SNSのことを指しているなあと感じました。
SNS登場前において、人がインターネット上で発信する際は人によって発信方法がバラバラでしたが、SNSでフォーマットが統一されて均一化されました。すると発言が正確かどうかより、発言した人がどのような関係値を持っているかが重視されている時代になっていきました。
時代の移り変わりと共に情報の表現プロセスは変化していきます。つい、自分は何のために発信しているのかを見失ってしまいそうになるので、忘れないようにしたいと思いました。

個別パート

ここからは攻略順に書いていきます。

picapica

真琴ルート

最初に着手したのは真琴ルートです。
picapicaとはカササギの学名です。

個別ルートの中では一番テンポ感が好きでした。明かされる情報量が結構多い割には過去話が長尺で展開されることもなく読みやすかったですね。直哉が一番主人公していたように思いました。

黒幕の本間麗華(中村章一の妹)が意外とあっさり退場していったのが気になったぐらいかな。なんか登場したと思ったらあっけなく展覧会で自爆して退場してしまいましたね。
麗華が紗希&真琴にどう辛くあたっていたのかは幼い真琴の視点から見てみたかったかも。

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』

真琴ルートでよく登場するのはこの作品でした。孤独な少年ジョバンニと友人カムパネルラによる銀河鉄道の旅物語です。
鷺の砂糖菓子を作るために覚えてしまったと真琴が語るのは、銀河鉄道の夜の第八幕に登場する「鳥を捕る人」というキャラクターとの会話劇です。

わっしはすぐそこで降ります。わっしは、鳥をつかまへる商売でね。
何鳥ですか。
鶴や雁です。さぎも白鳥もです。
鶴はたくさんゐますか。
居ますとも、さっきから鳴いてまさあ。聞かなかったのですか。
鶴、どうしてとるんですか。
鶴ですか、それとも鷺ですか。
鷺です。
そいつはな、雑作ない。さぎといふものは、みんな天の川の砂が凝って(こごって)、ぼおっとできるもんですからね、そして始終川へ帰りますからね、川原で待ってゐて、鷺がみんな、脚をかういふ風にして下りてくるとこを、そいつが地べたへつくかつかないうちに、ぴたっと押さへちまうんです。するともう鷺は、かたまって安心して死んぢまひます。あとはもう、わかりきってまさあ。押し葉にするだけです。

引用部分の後で、鳥を捕る人は雁の足を軽く引っ張って「少したべてごらんなさい」とジョバンニに勧める。ジョバンニはこれはお菓子ではないか? と疑念を持ち……というストーリーです。
私自身すごく好きな作品です。未読の方は是非読まれてみてはいかがでしょうか。

宮沢賢治 銀河鉄道の夜

青空文庫

鳥を捕る人の正体については今もなお議論の対象になっています。
ではサクラノ詩ではどう捉えているのか?

私は、鳥を捕る人の職業性に注目するのが一番しっくり来ました。
銀河鉄道の世界では、彼のような鳥を捕って売るような商売をすることにこだわる人物が他にいません。鳥というのは一見、死のメタファーですがジョバンニはそれをお菓子であると認識する。

これは真琴の作る陶磁器に通じる部分があると思います。彼女は「究極的に日常使いできる陶磁器」に拘りました。つまり彼女にとって、鳥=砂糖菓子とは決してネガティブなものではなく日常の延長にあるものなのでしょう。鳥を捕る人としての在り方を自分に重ねていたのかもしれません。

真琴にとっての死、おそらくそれは母との関係性と圭と離れ離れになった時間を指しています。彼女は二人の天才(直哉と圭)の足跡を学校に残すという当初求めたもの(ゴースト)は手に入りませんでしたが、本当に大切なもの(親との愛、誰かを愛すること)は手に入れることができます。
母との和解も圭との相互理解も劇的なものではありませんが、それは砂糖菓子の如くゆっくりと浸透していくものなのでしょうね。

森博嗣『黒猫の三角 Delta in the Darkness』

最先端の自由な発想とは、理由も、言葉も、理論も、まだないところへ飛ぶことなの

真琴が引用するこの台詞は、森博嗣の小説に登場する瀬在丸紅子というキャラクターが元ネタです。
カササギの鏡は中国の破鏡伝説に由来する言葉で月の異称でもあります。
つまり真琴が目指していたのは、理屈では手の届かない場所にある月=天才の境地へ飛ぶこと。そのきっかけが直哉の描いた『櫻日狂想』でした。

でも真琴は凡人ゆえにその境地へ至れない。だからムーア展公募という新しい月を作り、直哉と圭をそこへ向かわせるために美術部という梯子をかけて登らせようとした、と私は解釈しています。

真琴に限らずなんですが、引用ネタにキャラの行動や思想を合わせようと頑張り過ぎてるなあという感じがしました。このモチーフは多分この暗喩なんだろうなと想像は出来るんですが、それ自体は理解できてもあまりワクワクしないんですよね。
哲学や思想はキャラクターの血肉の最も奥深いところに息づいているものなので、あまり表に出すとキャラクターの行動原理を逆に縛ってしまう。そこが勿体ないです。

レーティング表現

作中で一番自然だったように感じました。
色々事件が一通り片付いて二人がお互いの気持ちに向き合う余裕ができたタイミングから始まったのが好印象です。
最後、マジックの落書きがまた出てこないかちょっとだけ期待したけどありませんでしたね笑

次は稟ルートです。

Olympia

稟ルート

オランピアはエドゥアール・マネの代表作で、オリジナルを模写した絵が夏目屋敷に飾られていることが共通ルートで示されます。
この情報はミスリードを誘導していて、吹という謎の少女が示していたオランピアはホフマン物語に登場する自動人形から取ったドールショップのことを指していた、という流れでした。

意外にあっさりしていたなというのが所感でした。いわゆる罪と罰の物語で、稟は罪悪感に押しつぶされそうになりながらも過去と向き合い、直哉に救われながら生きていく。それ自体はいいと思います。

ただ気になったのは、話のトーンの重さに比べてレーティング部分の表現が比較的早くから始まることでした。普通の学園ADVであれば違和感ないと思うんですが、話の核心が明らかになる頃には既に2人とも3回ほど致しており、展開への興味が薄れていました。
直哉は稟と身体を重ねることで「彼女が真実に繋がることを思い出してしまうのではないか」とか不安にならないのかな? と読んでいて思いましたが、特にそういう様子もなく。シナリオとレーティング表現部分で別の物語を読んでいる気分になりました。

あと、稟は血縁の問題に関連しません。雫や千年桜との関係はありますが、稟の人間ドラマで焦点が当たる部分は「失われた記憶が戻った時、彼女はどう向き合うのか」に絞られていたと思います。それが全体を通じてあっさり描かれているというのが物足りなさの原因かもしれません。
「なぜ」記憶が失われていたのかも気になるのですが、重要なのはその後「どのように」向き合うのかが見たかったです。トラウマの回復って1日2日でどうにかなるものではないので。鬱ゲーにしたくなかったのかなあという意図も感じられはしたのですが、それにしてもあっさりしすぎている。
多分色々と致す前にその辺りのことを向き合う展開のが良かったんじゃないかな〜と。真琴のレーティング表現が一番自然だったという理由でもあります。

トラウマ回復を丁寧に描くことで、Ⅴ以降に記憶が戻ることの重みも一層増したんじゃないかと思うのでした。

ZYPRESSEN

共通ルート

氷川里奈のルートです。ZYPRESSENとはドイツ語で「糸杉(西洋ヒノキ)」という意味で賢治の『春と修羅』で登場します。カトリックにおいては墓の木とも呼ばれており、死と再生のモチーフとみなされています。
幼い里奈は日光過敏症を患っており、おそらく悪性腫瘍の発現による死と隣り合わせの日々を送っていました。以下は春と修羅のZYPRESSENに関連する一節です。

 ZYPRESSEN 春のいちれつ
   くろぐろと光素を吸い
    その暗い脚並からは
     天山の雪の稜さえひかるのに
     (かげろうの波と白い偏光)
     まことのことばはうしなわれ
    雲はちぎれてそらをとぶ
   ああかがやきの四月の底を
  はぎしり燃えてゆききする
 おれはひとりの修羅なのだ

この蛇行するような文体は原文ママで、荒ぶる内面を心象スケッチとして表現したかったのではないでしょうか。死への恐怖を里奈は春と修羅に重ねて詠んでいたのだと想像できます。

ルートの位置づけとしては稟と似ており、直哉と里奈と優美の三角関係が話の中心になります。
どちらかというと、ヒロインである里奈より優美の方がしっかり描写されているように感じました。

これは里奈に限った話ではないんですが、直哉は物語開始前に多くのヒロイン達を救っているんですよね。圭が直哉はヒーローだと繰り返し口にしますが、里奈もヒーローに救われた者の一人です。
里奈に対する直哉の行為は結構重くて、稟を救ったことで不自由になっていた右腕の最後の力を使って芸術を共作したことが明かされます(この前提を理解させるために稟を攻略しないと里奈が攻略できないのでしょうね)
なので、現在の里奈は直接何か困難に相対しているわけではない。ただ、過去に救ってもらった恩を直哉に尽くすことで返そうとしている。そういうお話に読めました。

では里奈が色々画策して動くのかというとそうではなく、主に行動するのは優美です。優美は里奈の肝心なところで奥手な性格も分かっていてわざと直哉にくっつくという大胆な行動に出たんだろうなと感じました。
優美は里奈のために行動すればするほど、自分の思い描く幸せから遠のくというジレンマにぶつかりますが、里奈にはそれがない。その結果、里奈がメインヒロインにも関わらず感情移入するのは優美、という状態になってしまい里奈の心情にいまいち入り込めませんでした。

個人的には優美が直哉と結ばれるエンドも見てみたかったなあ。里奈との関係や自身の性的嗜好との乖離など美味しい題材がたくさん見えますが、鬱ゲー路線に行ってしまいかねないから採用されなかったのかな、などと思ったりしました。

フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』

19世紀のドイツの哲学者ニーチェによる哲学的叙事詩です。
「神は死んだ」の下りが有名で、超人や永劫回帰などの思想を通じて人生を肯定する理想を語る散文的な作品です。

このうちサクラノ詩では「友について」という題の一節が里奈の口から語られます。

友の寝顔を、君は眺めたことがあるか? 友の素顔を知ろうとして? 日頃目にする友の顔とは、そもそも何か? そして驚かなかったか、その友の相好に?

ツァラトゥストラが語る友人は、慰めや同情に基づく関係ではなく超人として高め合うための存在であるとされています。つまり、敢えて敵として立ちはだかることが友の真の成長に繋がるということです。

幼い里奈から見た優美は、狼のような鋭い牙を持った孤高の存在でした。夜の公園で友人関係となった里奈は猛毒の白いきのことなり、牙を剥いていた優美を死に至らしめます=死という退廃さを帯びた美しさで虜にして無力化します。
里奈の目論見通り、時間を重ねる毎に優美の獰猛さは失われていき、性的嗜好を除いて普通の女の子として成長していきます。
里奈にとって優美との交流は超人となるための実践だった、そう読めました。

宮沢賢治『よだかの星』

よだかとは主人公である鳥の名前であり、生まれつきの容姿の醜さから他の鳥に疎まれています。
優美は女子という集団になじめない自身をよだかになぞらえていました。
よだかは最終的に青い星となって夜空に輝き続けますが、優美は自分がそうなれないことに嘆きます。
「仄かにゆらぐ弱々しい青い炎(=氷川さん)になりたい」という台詞にこの心情が込められていました。

蝎の火

『銀河鉄道の夜』で登場するエピソードの一つで、クライマックスを静かに彩ります。
サクラノ詩では以下のシーンが里奈の言葉で書き直されていました。

「蝎の火って何だい。」ジョバンニがききました。
「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」「蝎って、虫だらう。」
「えゝ、蝎は虫よ。だけどいゝ虫だわ。」「蝎いゝ虫ぢゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで螫されると死ぬって先生が云ったよ。」「さうよ。だけどいゝ虫だわ、お父さん斯う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がゐて小さな虫やなんか殺してたべて生きてゐたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられさうになったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけどたうたういたちに押へられさうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたといふの、
 あゝ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられやうとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもたうたうこんなになってしまった。あゝなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったらう。そしたらいたちも一日生きのびたらうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんたうにあの火それだわ。」

幼い里奈はこのシーンを引用しつつ、自身の気持ちを焼身願望という言葉で表現していました。これは「なぜ自分が死ななければならないのか」という理不尽への恐怖とそこから逃避したいという気持ちが合わさったものだと解釈しました。
そして、ただ理不尽に死ぬのは納得できない。だからまことのみんなの幸のためにという自己犠牲的な精神で自身に折り合いをつけようとした、その心情を重ねたのではないでしょうか。

MARCHEN

共通ルート

いわゆる百合ルート。ノーマル嗜好であるはずの氷川里奈が同性愛者として優美を求めるという短いお話です。
過去作の素晴らしき日々でも百合描写が出てくるのですが、そこには空想要素が入っていたこともあり(ヒロイン自体が空想的な存在)、この話も優美の空想(夢)であると解釈するのが自然でしょう。そもそもMARCHEN自体がお伽噺という意味の単語です。

このルートで優美が引用するのは、中原中也の詩集『在りし日の歌』の「一つのメルヘン」です。

中原中也『一つのメルヘン』

中原中也が亡き息子を想って綴ったとされる鎮魂の詩です。

秋の夜は、はるかの彼方(かなた)に、
小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。

陽といつても、まるで硅石(けいせき)か何かのやうで、
非常な個体の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもゐるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……

おそらく河原は時、蝶は幸福のメタファーです。蝶が見えなくなることで川床に水がさらさらと流れ出す(かりそめの幸福が覚め、時が動き出す)という場面を切り取ったのではないでしょうか。

優美にとって、この空想は理想の幸福です。しかし直哉を想う里奈にとってはそうではない。これが現実となれば里奈の想いは成就しないことになります。
どんなに優美が直哉に嫉妬していても、優美が好きになった里奈という存在が直哉を好きであるという事実は変わりません。であれば、もし同性愛者として目覚めた里奈が存在しているなら、彼女の本心は殺されており死んでいるも同然です。
そのやるせない心境を、優美は中也の詩に重ねたのではないでしょうか。

A Nice Derangement of Epitaphs

雫ルート

夏目雫のルートです。
章題はアメリカの哲学者ドナルド・デイヴィドソンが1986年に発表した言語哲学の論文タイトルです。
アイルランドの作家リチャード・ブリンズリー・シェリダンの戯曲『恋がたき(The Rivals)』の登場人物、マラプロップ夫人が
「a nice arrangement of epithets(あだ名のすてきな言い回し)」と言おうとして
「a nice dearrangement of epitaphs(墓碑銘のすてきな混乱)」
と間違えた言い間違い(マラプロップ症)の引用です。
つまり、誤用や解釈の違いが意味を持つことを表しています。

サクラノ詩では、本ルートのクライマックスである櫻七相図の完成を指しているようでした。
直哉が完成させた櫻七相図に健一郎がサイン(署名)を入れる。シーンとしてはそれだけなのですが、健一郎はこれを墓碑銘であると語ります。
つまり健一郎にとっての墓碑銘とは、自分の死後に墓石に刻まれる名前のことではない。息子が作り上げた櫻七相図に今この瞬間に刻むサインこそが、自分にとっての墓碑銘なのだと宣言したのです。
櫻七相図を描いたのは直哉ですから、その事実が世間に明るみになれば贋作だと叫ばれて作品の商業的価値は毀損されるでしょう。櫻七相図の秘密はこの親子だけが知るものであり、当然、この署名が健一郎や直哉にとってどのような解釈を持つものなのかは当人以外が知り得るものではない。
もっと言えば、これは健一郎にとって迫る死を受容することも意味していますし、直哉にとっては最初で最後の親子共作だった。その事実に直哉はボロ泣きします。

私は、このシーンがサクラノ詩で最も美しいと思いました。
芸術とは何か、何のためにあるべきかという問いへの答えがここに詰まっていました。

なので、雫と吹の関係は展開上必要であったものの、ややサブ的な扱いだったなという印象でした。細かいことを言うと、健一郎と直哉の過去が語られていくことと吹の正体が明らかになっていくことは関係性が薄く見えるんですよね。櫻七相図に込められたサインの意味を直哉だけが分かってて、一応雫にも話しかけてはいるけど多分理解せずに泣いてるように見えたのが大きいかなあ。
雫にとっては自分を中村の手から救い出してくれた絵なわけですが、直哉と結ばれるのであればサインに込められた想いというのも雫に分かってもらえると、なお熱かったかなと思いました。

あとは…雫がサキュバス化して直哉とイチャついてることしか印象に残りませんでした笑
稟の心をコピーしたってことは性癖も一緒にコピーしたわけで…まあ察し。

What is mind? No matter. What is matter? Never mind.

Ⅳ章

※画像の内容は章と関係ありません。

健一郎の回想パート。共通ルートで若田が直哉に渡したウイスキーが誰のものなのかがプレイヤーに明らかになります。
中村章一もボディガードも妙なところで優しいなあと思ってしまいました。これがカイジに出てくる黒服だったら健一郎は知らない山中に連れてかれて埋められる展開じゃんって思いつつ…。

普通だったら視線が挑発的だという理由だけで中村章一が絵画を破ったりしないと思いますが、そう思わせるだけの力が健一郎にあったんでしょう。しかもそれもヤクザの交渉術に組み入れる大胆な発想も素晴らしい。

ただなんというか…中村家の小物感がすごかった。まさに成金って感じ。

The Happy Prince and Other Tales

Ⅴ章

ワイルドの幸せな王子がタイトルです。これは共通ルートで稟が暗示していた通り、直哉と圭の運命を指していました。

そしてついに藍ルートの話でもあります。藍を一番最初に攻略したかったけどまさか最後まで攻略できないとは思わなんだ。
残念ながらこの章の満足度はイマイチ……それは2つの理由によるものです。

  1. 圭が事故死してしまうことに感情移入ができなかった

夏目圭はプロフィール上は天才的な才能を持っていて、直哉を超えることを目標にずっと努力してきたことになっています。確かにそういう発言も度々出てきます。

しかし、共通ルートなどの印象で彼はかなりイジられ役でしたし、ヒロインとの個別ルートで何か重要な役割を果たすような場面も見られませんでした。真琴の異母姉弟であることが明かされるものの、真琴の物語に直接彼が関わるわけでもなく、他に見せ場もない。
何なら櫻七相図の制作に関わったり、正田神父や妹のために櫻達の足音を残そうと画策した明石の方が存在感がありました。

圭の死をきっかけに雫は感情が制御できなくなり稟が記憶を取り戻す、直哉は抜け殻のようになるなど色々な変化が起こるのは分かるのですが、理解は出来ても没入感がなく、プレイヤーとしての自分はただ眺めるだけになってしまいました。

Ⅴの冒頭で圭が直哉との将来の夢を熱く語りだしたり、不眠不休の創作を繰り返したりしてて死亡フラグ立ててるな〜と感じて展開が読めたのもあるかな。

  1. 藍エンドがトゥルーエンドではない

これは藍と結ばれないことが受け入れられなかった……という意味ではなく。
サクラノ詩全体の構造に関する違和感でした。

Ⅴのクライマックスで、直哉はついに自らが抱えていた本当の気持ちを藍に吐き出します。そして自分がこれまでやってきたことは間違いだったのかと藍に問われ、選択を迫られます。
間違っていたと直哉が口にすることで、藍は直哉の弱さを受け入れてお互い結ばれるという展開が藍エンドでした。これがトゥルーエンドか……悲しいこともあったけど直哉が立ち直れて良かったと安心していたのも束の間、いきなりタイトル画面に戻されて「えっ?」ってなってしまいました。これトゥルーエンドじゃないんかい、と。

思えばⅤがそもそもⅢで提示された様々なヒロインと結ばれることのなかった世界の話なんですよね。で、Ⅴのトゥルーエンドは直哉が自分の弱さを認めながらも、特定の誰かに支えられること無く生きていくという結末を迎える。
率直に、直哉はなんでこんな過酷な運命を背負い続けなければならないんだろうという気持ちになりました。それが櫻の芸術家としての在り方なのだ、と結論づけられたらそれまでなんですが、あまりにも直哉の人間性を否定しすぎてやしないか? と。
幼い頃から芸術で多くのヒロインを救い続け、見返りを求めず、その過程で右腕を痛めて絵を描くことを諦めざるを得なくなり、しかし才能に溢れた友人を導くためにもう一度筆を握るも、その夢を叶えた友人を喪い……。
そりゃ大事な酒を浴びるように飲んでぶっ倒れて誰かに甘えたくもなる。その相手が直哉のことを生まれた時から一番よく知る藍なら、これ以上の人選はいないと思うんですよ。でも、物語はそれを是としない。藍と結ばれることなく芸術家として生き続けろと促す。これ誰とも結ばれないまま直哉は死ぬのか? 別に直哉はアンチヒーローじゃないし、あまりに救いがなさすぎるのでは。

稟との対話でディキンソンの引用や哲学史の振り返りなどありましたが、そんな達観をしてないで直哉は自分自身のことについて思いを馳せてくれ、と思うのでした。
君は幸せな王子になんてならなくていい。

雫も直哉に何かを返すためだけに生きてきたはずなのに、ショックで夏目家から離れてしまったというのもよく分からず。むしろ藍と同じで直哉と共に夏目家を守っていくものだとばかり思っていたのですが。

では、いよいよ最終章のⅥに入ります。

櫻の森の下を歩む

Ⅵ章

藝大を卒業するも弓張学園の非常勤講師に留まり、普通の社会人のような生活を送る直哉。
前半はこれまで端役で出ていたキャラが成長して集まってきます。これは続編を意識した構成なんだなと思いました。
若い女子にはイケメンでミステリアスで、でもどこか影のある年上の男は刺さるよね。

稟がプラティヌ・エポラールを獲得したのだからもっと弓張学園に投資するスポンサーが増えそうだなと思いましたが、実際は数年で美術部が廃部しています。これは学校理事がその栄誉の価値を理解出来なかったということなんでしょう。オリンピックで金メダル獲得とかなら理解してもらえたのかな、どうなんだろう。
後半はブルバギとのバトル。一泡吹かせてトーマスを見事に殴り倒し、藍も帰ってきてめでたしめでたし、という感じでした。

結局最後に描きたかったのは、ありふれた幸福の在り方なのかな?
登場人物の行動に神視点の語りが入ってくるのが多分私にはあまり合わないのでしょうね。素晴らしき日々は違和感なく楽しめたんですが、サクラノ詩は全体的にキャラの行動原理の不自然さや描写不足が、表現したいテーマとの乖離を起こしていたように思いました。

おわりに

この作品は「血縁や権力といった現実とどう折り合いをつけて芸術を成していくか?」の話だと思って読んでいたのですが、Ⅴ章以降はその焦点がぼやけて「幸福に繋がるための生き方とは?」というところに軸足が変わってしまったように見えました。
素晴らしき日々の「幸福に生きよ!」を継承しているのは分かるんですが、直哉が当たり前の幸福を享受するにしては世界が妙なところで都合よく優しかったりする。
明石の『櫻達の足音』のエピソード、雫ルートの櫻七相図のエピソードは好きだったんですが、それ以外の部分は物語にあまり入り込めず、個人的には不完全燃焼でした。

頑張って言語化するなら、表現したいテーマが多すぎたせいか登場人物が支えきれていなかったという印象です。村田清彦とか坂本彰三とかポッと出のスゴいはずの人が一瞬登場して雑に消えていったのも気になった。例えば、彼らをもっと早くから登場させていれば「芸術家にとっての当たり前の幸福とは何か?」という問いをさらに多角的に描けたのではないでしょうか?

あと本編の直哉がかなり過去の遺産で食いつないでいる感じだったのもマイナスかな……重要なことが過去に詰め込まれすぎているせいで、共通ルートが全体的に匂わせ満載のふわっと会話+下ネタと妙にリアルな描写で引っ張る感じに見えたので「またこのパターンか……登場人物全員煩悩の固まりじゃん?」と思いながら読んでた部分もありました。

かなり長くなってしまいましたが、いったんここまで。
続きは気が向いた時に書きます。

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